コティングリー妖精事件とは?コナン・ドイルも信じた写真の真相

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「コティングリー妖精事件」は、1917年のイギリスで少女2人が撮影した5枚の妖精写真をめぐる騒動です。シャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナン・ドイルが本物だと信じ、雑誌で発表したことで世界的な話題になりました。

結論からお伝えすると、この写真は本人たちの告白によって作り物だったと確認されています。ただし、そこにたどり着くまでに66年かかりました。

この記事では、事件の流れ・トリックの中身・66年後の告白・写真が今どこにあるのかまでを順にたどります。なぜ大人たちが少女の悪戯を見抜けなかったのか、その理由も当時の事情から見ていきましょう。

目次

コティングリー妖精事件とは?1917年に少女2人が撮った妖精写真の騒動

コティングリー妖精事件とは、イギリス・ウェストヨークシャー州のコティングリー村に住んでいたいとこ同士の少女2人が、1917年から1920年にかけて撮影した5枚の「妖精の写真」が本物かどうかで社会を巻き込んだ論争のことです。撮影したのはエルシー・ライトとフランシス・グリフィスの2人でした。

写真に写っていたのは、羽を持つ小さな妖精と、ノームと呼ばれる小人でした。当時としては合成の痕跡が見つからず、専門家の鑑定でも「加工なし」と判定されます。そこにコナン・ドイルが加わったことで、話は一気に大きくなりました。

正体は、厚紙に描いて切り抜いた妖精の絵でした。地面に帽子ピンで立て、その手前に少女が入って撮っただけの写真です。2人がそれを認めたのは1983年、事件の発端から66年後のことでした。

この事件の面白さは「少女が大人を騙した」ことではなく、信じたい大人たちが自分から証拠を積み上げていった過程にあります。

5枚の妖精写真とは(撮影年と内容の一覧)

写真は一度にまとめて撮られたものではありません。1917年に2枚、3年あいだを空けて1920年に3枚が撮影されています。この「間の3年」が、のちに騒動を大きくする分かれ目になりました。

枚数通称撮影時期写っているもの
1枚目フランシスと妖精たち1917年7月川辺に頬杖をつくフランシスの前で、羽のある4体の妖精が踊っている
2枚目エルシーとノーム1917年9月芝生に座るエルシーの手のそばに、羽の生えた小人(ノーム)が立っている
3枚目跳ぶ妖精とフランシス1920年8月フランシスの顔のすぐ前に、妖精が飛び上がっている
4枚目花束を差し出す妖精1920年8月エルシーの手に向かって、妖精がツリガネソウの花束を差し出している
5枚目妖精たちの日光浴1920年8月草むらの中に、繭のようなものと妖精らしき姿だけが写る。人物は写っていない

5枚目だけは人物が入っておらず、他の4枚と写り方も違います。この1枚が、のちに2人の証言が食い違う原因になりました。

事件のはじまり──1917年、コティングリー村の小川で何が起きたか

発端は、叱られた9歳の少女のひとことでした。「妖精と遊んでいた」という言い訳を証明するために写真を撮った、というのが2人が語ったきっかけです。つまり最初から世間を騙す意図があったわけではなく、家の中で完結するはずの悪戯でした。

いとこ同士の2人、エルシー16歳とフランシス9歳

エルシー・ライトは1901年生まれで、コティングリー村の自宅に暮らしていました。フランシス・グリフィスは1907年生まれで、母親とともに南アフリカからイギリスへ渡り、エルシーの家に身を寄せていました。年の差は6歳ほどです。

エルシーは絵が得意で、写真店で働いた経験もありました。この2つの条件が、あとで妖精の絵と写真技術という形でそろってしまいます。一方のフランシスは、慣れない土地に来たばかりの子どもでした。

2人は家の裏を流れる小川、コティングリー・ベックでよく遊んでいました。フランシスがそこで何度も服を濡らして帰り、母親に叱られたことが事件の入口になります。

父のカメラを借りて撮った最初の1枚

1917年7月、エルシーは父アーサー・ライトから四つ切り乾板のカメラを借ります。当時のカメラは乾板を1枚ずつ入れ替えて撮る方式で、素人が気軽に何枚も撮れるものではありませんでした。2人は30分ほどで戻り、1枚を撮り終えます。

父アーサーは自宅の暗室で現像し、白い形が写っているのを見つけました。彼はこれを紙の切り抜きだろうと考え、以後カメラを貸すのをやめています。父親は最初から見抜いていたわけです。

ところが母のポリーは違いました。9月に2枚目が撮られたあとも、彼女は写真を本物と受け止めます。家の中で意見が割れたことが、写真を外へ持ち出す動きにつながりました。

イギリスの田舎の小川と草むら、カメラを持った少女のシルエット(北欧イラスト風・くすみカラーのシンプル線画)

家庭内の悪戯が世に出た日

転機は1919年です。母ポリーが、ブラッドフォードで開かれた神智学協会の集まりに写真を持ち込みました。神智学協会は、目に見えない世界の探究を掲げる団体です。妖精の写真は、その場で強い関心を集めます。

写真は協会の中心人物のひとり、エドワード・ガードナーの手に渡りました。ガードナーは写真技術者のハロルド・スネリングに鑑定を依頼します。スネリングは「一度の露光で撮られており、二重露光や紙の切り抜きを吊るした痕跡はない」という趣旨の判定を出しました。

フィルムメーカーのコダックは調査に協力したものの、写真が本物である証明書の発行は断っています。全員が信じたわけではありませんでした。

なぜコナン・ドイルは妖精写真を信じたのか

コナン・ドイルがこの写真を知ったのは1920年です。彼はすでに心霊主義(スピリチュアリズム)の熱心な提唱者として活動しており、妖精写真は自説を裏づける材料に見えました。推理小説の作者だから騙されにくいはず、という直感は当てはまりません。

『ストランド・マガジン』1920年クリスマス号

ドイルは、シャーロック・ホームズを連載していた雑誌『ストランド・マガジン』から妖精についての記事を依頼されていました。そこへ持ち込まれたのがコティングリーの写真です。1920年のクリスマス号に、写真つきで記事が掲載されます。

この号は短期間で売り切れました。ホームズの作者が「妖精は実在する」と主張した衝撃は大きく、賛否が新聞をにぎわせます。少女2人の名前は当初、プライバシー保護のため仮名で伏せられていました。

掲載に先立ち、ガードナーは1920年の夏にコティングリーを再訪しています。新しいカメラと乾板を2人に渡し、追加の撮影を依頼しました。こうして3枚目から5枚目が生まれます。

著書『妖精の到来』(1922年)

ドイルは1922年、この件をまとめた『妖精の到来』を出版しました。写真の経緯、鑑定の記録、寄せられた反論への回答が収められています。彼にとってこれは冗談ではなく、真剣な報告書でした。

本の中でドイルは、写真だけを根拠にしていたわけではありません。妖精を見たという各地の証言を集め、それらと写真を突き合わせる形で議論を組み立てています。方法としては丁寧ですが、出発点の写真が作り物でした。

推理小説の作者が信じた時代背景

1920年前後のイギリスは、第一次世界大戦とスペイン風邪で膨大な死者を出した直後でした。身近な人を失った人々のあいだで、死後の世界や霊との交信を求める心霊主義が広がります。ドイル自身も、大戦のさなかに息子を亡くしていました。

目に見えないものの存在を証明したい、という空気が社会にあったわけです。そこへ「子どもが撮った素朴な写真」が現れました。疑う理由よりも、信じる理由のほうが探しやすい状況だったといえます。

妖精の正体は「紙の切り抜き」だった──トリックの中身

種明かしをすると、妖精は厚紙に描いた絵を切り抜いたものでした。それを帽子ピンで地面に刺して立て、手前に少女が入って撮影する。それだけの仕掛けです。特殊な現像技術も、合成も使われていません。

元ネタは1914年の絵本の挿絵

妖精の姿は、エルシーが完全に想像で描いたものではありませんでした。1914年に刊行された『プリンセス・メアリーズ・ギフト・ブック』という本に載っていた、クロード・A・シェパーソンによる挿絵が下敷きになっています。踊る少女たちを描いた絵でした。

エルシーはその図柄を写し取り、背中に羽を描き足しました。ポーズや衣装が元絵とよく似ていることは、のちの調査で図版を並べて確認されています。当時この本はイギリスで広く読まれていたため、気づく人がいてもおかしくありませんでした。

紙に描かれた妖精のシルエットを切り抜き、細いピンで草に立てる様子(北欧イラスト風・くすみカラーのシンプル線画)

帽子ピンで立てただけの厚紙

切り抜いた妖精は、当時の女性が帽子を留めるのに使っていた長い帽子ピンで支えられていました。草むらに刺せば、風がなければ数十秒は立っています。乾板カメラの露光時間なら十分でした。

実は写真をよく見ると、ピンの頭らしきものが妖精の腹部あたりに写っている箇所があります。ドイルはこれを「妖精のへそ」と解釈しました。同じものを見ても、前提が違えば結論が逆になる例といえます。

当時なぜ見抜けなかったのか

理由は大きく3つあります。第一に、当時の鑑定が想定していた偽造は「二重露光」や「ネガの合成」でした。実物を置いて一度で撮る方法は、そもそも検査の対象外だったのです。

第二に、写真という技術そのものがまだ新しく、「写っているものは実在した」という素朴な信頼が残っていました。第三に、疑う側も「10代の少女にそんな細工ができるはずがない」という思い込みを持っていました。エルシーが絵の心得と写真店の勤務経験を持つことは、あまり重視されなかったのです。

トリックが成立した3つの条件
  • 検査手法が「合成」しか想定しておらず、被写体そのものを疑わなかった
  • 写真=現実の記録という信頼が、まだほとんど揺らいでいなかった
  • 「子どもには無理」という先入観が、撮影者の技能を見えなくしていた

1983年の告白──66年後に2人が語ったこと

2人が公に作り物だと認めたのは1983年でした。エルシーが1983年2月に検証者へ宛てた手紙で認め、同年の写真専門誌や雑誌のインタビューでも語られます。すでに2人は80代と70代になっていました。

きっかけは写真専門誌の検証連載

直接のきっかけは、写真研究者ジェフリー・クローリーが『ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・フォトグラフィー』に連載した検証記事でした。1982年から翌年にかけ、当時の撮影条件や乾板の特性を細かく検討する内容です。

それ以前の1970年代にも、画像を拡大して切り抜きの支えらしき痕跡を指摘する分析はありました。ただ決め手になったのは、外部からの解析ではなく本人の言葉です。エルシーが書いた告白の手紙は、現在ブラッドフォードの国立科学メディア博物館に収蔵されています。

「引くに引けなくなった」という説明

2人が語ったのは、悪意のある詐欺というより、止めるタイミングを失った話でした。最初は叱られた言い訳を通すためだけの悪戯です。ところが母親が信じ、協会の大人が動き、著名な作家までが名前を出してしまいました。

ここで「作り物です」と言えば、ドイルをはじめ多くの大人に恥をかかせることになります。フランシスは後年、コナン・ドイルのような人物を困らせるわけにはいかないと感じた、という趣旨の説明をしています。沈黙が長引くほど、訂正の代償は大きくなっていきました。

悪戯そのものより、周囲が本気になったあとに引き返せなくなる構造のほうが、この事件の本体だといえます。

フランシスが譲らなかった5枚目

ただし、2人の証言は完全には一致していません。エルシーは5枚すべてが作り物だと述べました。一方フランシスは、5枚目の「妖精たちの日光浴」だけは本物だと最後まで主張し続けています。

5枚目は他の4枚と違い、人物が写っておらず、輪郭もはっきりしません。撮影の経緯についても2人の記憶が食い違っていました。どちらが正しいのかを外から確定させる材料は残っておらず、現在も見解が分かれたままです。

フランシスは1986年、エルシーは1988年に亡くなりました。この食い違いは、結局そのまま残されています。

事件が残したもの──写真は今どこに、いくらで売れたのか

作り物と判明したあとも、この5枚の価値は下がりませんでした。むしろ「世界を騙した写真」として、博物館の収蔵品となり、オークションでは高値で取引されています。

写真とカメラは今どこにあるのか

撮影に使われたカメラや関連資料は、イギリス・ブラッドフォードの国立科学メディア博物館が所蔵しています。同じ西ヨークシャー地方のリーズ中央図書館でも、事件を紹介する展示や関連の催しが行われてきました。

コティングリー村自体は今も残っており、写真が撮られた小川のあたりを訪ねる人がいます。ただし当時の場所を示す明確な目印があるわけではありません。

オークションでの落札額

2018年10月、イギリスのオークションハウス、ドミニク・ウィンターで、ガードナーが講演に使っていたプリント2枚が競売にかけられました。事前の予想落札額は1枚あたり700〜1,000ポンドでしたが、結果は大きく上回ります。

出品されたプリント予想落札額実際の落札額
フランシスと妖精たち(1枚目)700〜1,000ポンド約15,000ポンド
エルシーとノーム(2枚目)700〜1,000ポンド約5,400ポンド

作り物だと確定してから35年後の話です。真贋そのものより、事件の記録として値がついたことがわかります。

生成AIの時代に読み直す

コティングリーの写真が通用した理由は、技術の高さではありません。当時の検証手法が想定していなかった方法をとったこと、そして受け手の側に信じたい気持ちがあったことの2点です。この構図は、画像が簡単に作れる現在のほうがむしろ当てはまります。

画像そのものを見つめるだけでは限界があります。誰が、いつ、どういう経緯でその画像を出したのかという周辺の情報をたどるほうが、判断の助けになります。66年の空白は、その手間を惜しんだ結果でもありました。

よくある質問

コティングリーの妖精写真は結局すべて偽物だったのですか?

エルシー・ライトは1983年に、5枚すべてが厚紙の切り抜きによる作り物だったと認めました。ただしフランシス・グリフィスは、5枚目だけは本物だと最後まで主張しています。1枚目から4枚目については、2人の証言が一致しています。

コナン・ドイルは最後まで妖精を信じていたのですか?

ドイルは1930年に亡くなっており、2人の告白は1983年です。したがって彼が種明かしを知る機会はありませんでした。1922年の著書『妖精の到来』では写真を本物として扱っており、生前に立場を撤回した記録は残っていません。

妖精の絵にはどんな元ネタがあったのですか?

1914年刊行の『プリンセス・メアリーズ・ギフト・ブック』に収められた、クロード・A・シェパーソンの挿絵です。踊る少女たちを描いたその図柄をエルシーが写し取り、背中に羽を描き足して厚紙に貼って切り抜きました。

写真は今どこで見られますか?

関連資料はイギリス・ブラッドフォードの国立科学メディア博物館などに収蔵されています。プリントの一部は個人の手に渡っており、5枚の画像そのものは著作権保護期間を過ぎているため、資料集や解説記事で目にする機会も多くあります。

2人の少女はその後どうなったのですか?

2人とも成人後は普通に暮らし、長く事件について多くを語りませんでした。1970年代以降にテレビ番組などで取材を受けるようになり、1983年に作り物だったと認めます。フランシスは1986年、エルシーは1988年に亡くなりました。

この事件をもとにした映画はありますか?

1997年に、事件を題材にした映画が複数公開されています。日本では『フェアリーテイル』の題で知られる作品があり、コナン・ドイルや手品師フーディーニが登場人物として描かれました。ただし脚色が加えられているため、史実の確認には向きません。

まとめ|コティングリー妖精事件が今も語られる理由

コティングリー妖精事件は、1917年に9歳と16歳の少女が撮った5枚の写真から始まりました。妖精の正体は絵本の挿絵を写した厚紙の切り抜きで、帽子ピンで草むらに立てただけのものです。それでも当時の鑑定は見抜けず、コナン・ドイルは本物として発表しました。

2人が認めたのは66年後の1983年です。ただしフランシスは5枚目だけは本物だと言い続け、その点だけは今も決着していません。

この事件が今も語られるのは、トリックが巧妙だったからではありません。検証の手法が想定外の方法に弱いことと、信じたい気持ちが証拠の見え方を変えることを、これ以上ないほど分かりやすく示しているからです。

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