藤堂高虎とは?主君を7回変えた理由と築城の名人と呼ばれた生涯

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「藤堂高虎(とうどう たかとら)」という名前を、歴史の授業や戦国ゲーム、大河ドラマで見かけたことはありませんか。主君を7回も変えたことから、つい「節操のない人」と思われがちな武将です。

けれども実際の高虎は、城づくりの天才として名を残し、最後は徳川家康がもっとも信頼した側近のひとりにまで上りつめました。この記事では、藤堂高虎がどんな人物だったのかを、生涯・主君を変えた理由・築城の名人と呼ばれたわけ・名言までやさしく解説します。

目次

藤堂高虎とは?一言でわかる人物像

藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代の初めにかけて生きた武将です。最終的には伊勢国・伊賀国を治める津藩32万石あまりの大名となり、津藩の初代藩主(藩祖)となりました。

戦国〜江戸初期を生きた津藩32万石の藩祖

高虎が生まれたのは1556年(弘治2年)。織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代に足軽から身を起こし、徳川の世が始まるころには大名にまで出世した人物です。一代でここまでのし上がった例は、戦国でもそう多くありません。

身長は190cmほどの大男だったと伝えられています。体には数えきれないほどの傷があり、指が欠けていたとも言われ、まさに戦場を生き抜いた武将らしい風貌でした。

「築城三名人」に数えられた城づくりの天才

高虎のもうひとつの顔が、城づくりの名人です。黒田孝高(官兵衛)・加藤清正と並んで「築城三名人」のひとりに数えられ、全国各地の城の設計(縄張り)を手がけました。

ここがポイント

藤堂高虎は「主君をたびたび変えた武将」として有名ですが、その本質は「築城の天才」であり「最後は家康に深く信頼された名将」です。イメージと実像にはかなりの差があります。

藤堂高虎の生涯をわかりやすく解説

藤堂高虎の人生は、ひとことで言えば「下積みからの大出世」です。小さな領主の家に生まれた少年が、主君を渡り歩きながら実力を認められ、ついには32万石の大名へと駆け上がっていきました。流れを順番に見ていきましょう。

近江の小領主の家に生まれた少年時代

高虎は1556年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県)に生まれました。藤堂家はもともと地元の小さな領主でしたが、高虎の父の代にはかなり落ちぶれ、農民に近い暮らしだったと伝えられています。

つまり高虎は、恵まれた家柄からのスタートではありませんでした。だからこそ、自分の腕一本で道を切り開く必要があったのです。

浅井長政から豊臣秀長へ──出世の足がかり

最初に仕えたのは、北近江の大名・浅井長政でした。足軽として「姉川の戦い」などで武功を上げますが、1573年に浅井家は滅亡。その後しばらくは旧浅井家の家臣たちのあいだを渡り歩きます。

転機となったのが、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕えたことでした。最初の待遇は300石ほど。現代でいえば平社員のような立場です。ところが武功を重ねて評価され、1581年にはおよそ10倍の3,000石にまで引き上げられました。

高虎は秀長に20年以上も仕え続けます。主君をよく変えた人というイメージとは裏腹に、信頼できる相手には長く尽くす一面があったことがわかります。

徳川家康に重用され津藩主へ

秀長の死後、高虎は豊臣秀吉に望まれて復帰し、伊予国(現在の愛媛県)で7万石の大名になります。やがて時代の流れを読み、関ヶ原の戦いでは徳川家康側につきました。

この選択が高虎の運命を決めます。家康に深く重用され、慶長13年(1608年)には伊勢国と伊賀国の領主となって初代の津藩主に。最終的には32万3,950石という大大名にまで上りつめました。

津城など藤堂高虎ゆかりの城のイメージ

藤堂高虎はなぜ主君を7回も変えたのか

結論から言うと、高虎が主君を変えたのは「裏切り」ではありません。仕えていた主君が亡くなったり、その家が断絶したりしたために、新しい仕え先を探す必要があったのが主な理由です。ここが多くの人に誤解されているポイントです。

「渡り奉公」は戦国では珍しくなかった

戦国時代には、実力のある武士がよりよい条件の主君のもとへ移ることを「渡り奉公」と呼びました。これは当時としてはごく一般的な慣習で、特別に不忠とされるものではありません。

むしろ、自分を高く評価してくれる主君を探して移ることは、腕に自信のある武士にとって自然な行動でした。高虎はその中でも、移った先々で着実に成果を出した人物だったのです。

裏切りではなく、主家断絶・主君の死が理由

高虎の場合、自分から主君を陥れたり、寝返って攻め込んだりしたわけではありませんでした。浅井家は織田信長に滅ぼされ、秀長は病で世を去り──というように、やむを得ない事情で次の道を選んできたのです。

「主君を7回も変えた=裏切り者」と覚えていたなら、そのイメージは少し見直したほうがよさそうですね。

仕える相手は変わっても、一度仕えた主君には誠実に尽くす。その姿勢こそが、のちに家康の厚い信頼を得る土台になりました。

築城の名人・藤堂高虎が残した城

高虎の名を歴史に刻んだもうひとつの功績が、城づくりです。彼が手がけた城は数多く、その設計思想は後の城づくりにも大きな影響を与えました。

層塔式天守を考案した革新性

高虎は「層塔式天守(そうとうしきてんしゅ)」という、各階を上に向かって少しずつ小さく積み上げる方式を考案したと伝えられています。それまで主流だった複雑な造りに比べ、設計しやすく工期も短縮できる合理的な様式でした。

戦のための堅さだけでなく、効率や実用性まで考えていたところに、高虎の技術者としての非凡さがうかがえます。

津城・今治城・伊賀上野城など

高虎が縄張りや改修に関わった主な城には、次のようなものがあります。

城の名前現在の場所特徴
津城三重県津市津藩の居城。高虎が大改修を手がけた
今治城愛媛県今治市海水を引き込んだ「海城」として有名
伊賀上野城三重県伊賀市高さ約30mの高石垣が見どころ

このほか、江戸城や大坂城、二条城など、徳川の重要な城の普請にも関わったとされ、その腕は天下に認められていました。

藤堂高虎の名言と知られざる逸話

高虎は、武将としての覚悟を示す言葉や、人柄をしのばせる逸話も多く残しています。ここでは代表的なものを紹介します。

「寝屋を出るより…」に込めた覚悟

高虎の言葉として有名なのが、次の一節です。

寝屋を出るより其の日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし。

「朝、寝床を出たその瞬間から、今日が死ぬ日だと覚悟して生きよ。そこまで覚悟を決めれば、何があっても動じることはない」という意味です。この言葉は、高虎が築いた津城跡に立つ銅像に刻まれています。

毎日を最後の日として生きる──主君を変えた処世術の人というより、武士としての強い覚悟を持った人物だったことが伝わってきます。

家康が臨終の枕元に呼んだ外様大名

高虎の人物像を象徴する逸話があります。徳川家康が駿府城で病に倒れ、最期を迎えようとしていたとき、家康は枕元に高虎を呼び寄せました。

高虎は、徳川家に古くから仕えた譜代大名でも、親類でもありません。いわゆる「外様(とざま)」の立場でした。それでも臨終の場に呼ばれたという事実は、家康がいかに高虎を信頼していたかを物語っています。

覚えておきたいこと

名言と逸話から見えてくるのは、「世渡り上手な武将」という表面的なイメージとは違う、覚悟と誠実さを備えた高虎の素顔です。

まとめ:藤堂高虎は「世渡り上手」ではなく「信頼された名将」

藤堂高虎について、ポイントをふり返ってみましょう。

  • 戦国〜江戸初期を生き、津藩32万石あまりの藩祖となった武将
  • 主君を7回ほど変えたが、その多くは主家の断絶や主君の死による「渡り奉公」
  • 黒田官兵衛・加藤清正と並ぶ「築城三名人」の一人
  • 層塔式天守を考案し、津城・今治城・伊賀上野城などを手がけた
  • 最後は徳川家康に深く信頼され、臨終の枕元に呼ばれた

主君を変え続けたという一面だけを見ると誤解されがちですが、実像の藤堂高虎は、確かな実力と覚悟で時代を生き抜き、天下人にまで信頼された名将でした。歴史上の人物の「イメージ」と「実像」の違いを知ると、戦国時代がぐっと面白く感じられますね。

よくある質問

藤堂高虎は何回主君を変えたのですか?

数え方によって7回とも8回とも言われます。浅井長政から始まり、最終的に徳川家康に仕えるまで、複数の主君のもとを渡り歩きました。ただし多くは主家の断絶や主君の死が理由で、自ら裏切ったわけではありません。

藤堂高虎はなぜ「築城の名人」と呼ばれるのですか?

全国各地の城の設計(縄張り)を手がけ、効率的に建てられる「層塔式天守」を考案したとされるためです。黒田官兵衛・加藤清正と並んで「築城三名人」に数えられています。

藤堂高虎ゆかりの城はどこにありますか?

津城(三重県津市)、今治城(愛媛県今治市)、伊賀上野城(三重県伊賀市)などが代表的です。とくに津城跡には高虎の銅像が立ち、名言が刻まれています。

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